飛鳥京・藤原京~平安京踏破てくてくレポート

「三輪王朝発祥の地、地元桜井を歩く」その1

まほろばの道を歩く10区間のうち、都合3回にわたって歩いた地元桜井。中でも密かに楽しみにしていたのは住んでいる所にいちばん近く、卑弥呼の墓かもと話題性も全国区の箸墓古墳について、どんなことを知ることになるかってことでした。箸墓編を2回に分けてレポートします。

今回初めて魏志倭人伝をおぼろげながらも紐解いてみると、、、。

毎朝家の門口の戸を開けると、箸墓古墳はすぐ先のところにこんもりとした森のように見えます。直線距離にして800mくらいのところです。ほとんど毎日のように前の国道をを通りかかったり、古墳の胴(ウエスト)の部分を自転車で半周して大神神社へ御神水を戴きに行ったりしています。その割りに、箸墓古墳については断片的な知識しかありませんでした。 今回は、大学の考古学や観光学の先生方、桜井市で遺跡発掘に携わっている方々と一緒に箸墓古墳を訪れるというまたとない機会機会に恵まれました。

箸墓古墳

みーちゃん、はーちゃん的なイメージでいうと、卑弥呼は若くて美しい女王だと思って何の疑いも持っていなかったのですが、大学の先生から「魏志倭人伝に描かれている卑弥呼はかなり老婆になっていたようですよ」と指摘されてちょっとショックです。そんなわけで、今回初めて魏志倭人伝をおぼろげながらも紐解いてみました。
「邪馬台国では、もともとは男の王を立てていましたが、70~80年が過ぎるうちに、国内が乱れ、戦争が何年も続いました。そこで諸国が一人の女性を王にすることにしました。名は卑弥呼といい、呪術を行い、多くの人がその占いを信じていました。年はとっていましたが、夫はいなくて、弟が補佐して政治を行っています。」 ちゃんとこう書かれているのですよね。

1770年前、卑弥呼のお使いが魏の国へ。 黒塚古墳で見つかって話題になったな「銅鏡」

同じ魏志倭人伝で卑弥呼は景初二年(239年)に中国の魏の国に使いを送っています。これに対して魏帝から魏の親愛な日本の王として、「金印紫綬」や「絹織物」、黒塚古墳で見つかって話題になったな「銅鏡」などが授けられました。
その頃、3世紀前半の日本の様子は魏志倭人伝のように正確な記録はないものの、『日本書紀』が初めて国を統治した天皇という称号をあたえている崇神天皇が卑弥呼の弟ではないかと仮説を立てると、結構日本の歴史がうまく説明できるそうです。

左:磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと) 右:崇神天皇宮跡碑 海柘榴市観音

今回は第十代、崇神天皇の宮跡と伝えられてい磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと・桜井市金屋:大神神社から南にすぐ)で仮説の根拠を聞きました。在位年代のほぼ確実な応神天皇(370~390)から世代を逆算してみると、ほぼ270~290年ごろになるそうです。卑弥呼がなくなったと伝えられる248年ごろにも近く、大和政権のリーダーは崇神天皇だったのかもとという説が真実味を帯びてきているというのです。

その仮説の上に立つと箸墓古墳は卑弥呼の墓なのかどうなのかです。次回は地元桜井で遺跡調査に携わっている埋蔵文化財センターの橋本さんから崇神天皇稜と箸墓古墳の前で聞いた驚きの見解などをレポートします。(陽)

-2008・12・30-

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