ずっと気になっていた場所がありました。2001年に桜井市へ引っ越してきて、明日香の棚田へ通うときに通るようになった山田道(県道15号)の明日香村奥山に近いあたりにその案内板が。←山田寺跡。30年近く前千三百数十年ぶりに飛鳥時代の伽藍の回廊の塀が土中からみつかって一躍有名になったのが山田寺跡です。あろうことか、その発掘に若き研究者として携わった大脇潔先生(近畿大学教授:考古学)の案内で、いつか行く、たぶん寄ると、10年近く思いつづけた山田寺跡が、眼前にあったのでした。
気になりながら山田寺はどういうお寺だったのか、行く直前まで知らないという不勉強者でした。それではあまりにも大脇先生に申し訳ないので、少し調べて参加しました。持統天皇のお爺さん石川麻呂願主になって建てたお寺だったのですね。でも大脇先生は付け焼刃のそんな知識は吹っ飛んでしまう興奮の現場に導いてくれました。
大脇先生といえば、森とふれあう市民の会の「鎮守の森を観にいこうかい」でいつもご一緒していて、瓦が専門の考古学の見地から興味深いお話をしていただいています。歩くのもしんがりの方で、山道は得手じゃないと常々聞いていたのです。が、この日たった一人の案内人としての大脇先生は体の動きが全然違うのにびっくりです。
すたすたと前方を行く先生。ひょいと土手に飛び乗っては、手招きをして、「ほらここが入江泰吉さんがいちばん愛した絶景のビューポイント」登って見ると、なんとも素晴らしい情景が眼前に。八釣の里の千年変わらないであろう村のたたずまいの背景に畝傍山と二上山が折り重なって、、、。大脇先生によると太陽の位置など最高の条件があるときのビューポイントはカメラマンの取り合いになるとか。
それはしかし、山田寺跡に着くまでのほんの食前酒のようなものでした。大根畑のあぜ道をどんどん進んでいく先生。今度あぜ道の先に突然広がった枯れた景色こそが本日のメインステージでした。たぶん「←山田寺跡」の表示を見て訪れただけでは角ばった芝生の舞台のある広場にしか見えなかったことでしょう。
「スコップの先に何かがある!でも始めはまさか千年前の大変なものが埋まってるとまでは思わなかったけど、そこは発掘の専門家ばかり、慎重に被っている土をどけていったんです。で現れたのがこれ」と先生が指差す先には、東側回廊が倒れたまま千年の眠りから覚めた、そのときの現場の写真がタイルの説明用銘板になっていました。
その後古代の瓦を手がかりとする考古学の専門分野を確立された大脇先生ですが、その専門分野への確信を深めた原点に山田寺回廊の飛鳥時代の瓦との出会いがあるそうです。この日先生が用意いただいた13ページに及ぶ資料も半端なものではありません。CGによる山田寺復元全景図、回廊や金堂のクローズアップ図もあります。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂が氏寺として創建し、この金堂ができたばかりのとき、願主石川麻呂は中大兄皇子に対する謀反の疑いにより、完成間もない金堂の前で自害。寺院造営は中断します。先生の資料に、649(大化5)蘇我倉山田石川麻呂害に遭う(帝説)とあり、685(天武14)仏眼を点ず(帝説)、天武浄土寺(山田寺)に行幸(書記)とあるので、実に発願から44年を経て開眼法要にこぎつけたことが読み取れます。
他にも我々素人が今後奈良の歴史を散策する際、お宝になるような貴重な資料を揃えていただきました。次回はその資料の中にある、世界の仏教寺院の塔の比較図を見ながら、田んぼの中にかつてあった廃寺の全容に空想を逞しくします。 (陽)



