まほろばの道を歩く10区間のうち、都合3回にわたって歩いた地元桜井。中でも密かに楽しみにしていたのは住んでいる所にいちばん近く、卑弥呼の墓かもと話題性も全国区の箸墓古墳について、どんなことを知ることになるかってことでした。箸墓編2回目は地元桜井で遺跡調査に携わっている埋蔵文化財センターの橋本さんから崇神天皇稜と箸墓古墳の前で聞いた驚きの見解などをレポートします。
魏志倭人伝にも登場する卑弥呼の弟が、もしかすると第10代崇神天皇かもという仮説があることを、を前回ご紹介しました。もしそうだとすると、崇神天皇陵の位置が気になります。箸墓古墳から一つ北の景行天皇稜をまたいで、一つ北の古墳が崇神天皇陵とされています。
今回の案内人の一人、桜井で遺跡発掘のエキスパート橋本輝彦さんが崇神天皇陵前で語ります。「現在○○天皇陵と名前をつけられているほとんどの古墳は、本当にその天皇の古墳か疑わしいのです。したがって、私たちはその土地で古くから呼び習わされている呼称を使います。この崇神天皇陵は行燈山古墳です。地元ではむしろ、一つ南、箸墓古墳の北の渋谷山古墳(景行天皇稜)が崇神天皇陵と伝えられていたほどです。」とすると、崇神天皇陵は本当はどこ?
このイメージ図は纏向遺跡を見晴らす相撲神社の近くにあります。橋本さんによると考古学の正確な考証を基に描かれたものではないが、ちょうど箸墓古墳が造営されてころの纏向遺跡を想像して、素人にわかりやすくが描かれたものだそうです。箸墓古墳=卑弥呼の墓で、それを造ったのが弟=崇神天皇だとすると、崇神稜はこの中にあるわけがありません。
ただ橋本さんたちはそんな仮説で仕事をしているわけではありません。
現在最大の眼目はイメージ図のど真ん中に描かれている卑弥呼の宮殿の柱跡を見つけることだそうです。目指すはもちろん邪馬台国纏向遺跡説の裏づけです。そんな裏づけの一つが、最近橋本さんの手で発見されました。全国的にも話題になった写真の木製仮面です。箸墓古墳のすぐ傍の井戸の泥の中にあったそうで、卑弥呼の頃の祭祀のための仮面とみられるとのことです。
橋本さんはコースを一部変更して、桧原神社から山の辺の道を外れ、里の方に下っていきました。写真はその道の先にみえる箸墓古墳です。彼が誘ったのは仮面が発見された箸墓古墳一帯が眼下に拡がるほけの山古墳でした。背後には三輪山が迫ります。三輪王朝ともいわれる初期大和王朝の全体像が目でみてよくわかる場所に案内されたのでした。
そこでの橋本さんの解説で邪馬台国畿内説は研究者の間では九割方定説になっていると聞き、みんなその確率の高さにへえ~という感じです。ということは目の前にイメージ図のような邪馬台国の宮殿が拡がっていた可能性が大いにあるということではないですか。箸墓古墳が女王卑弥呼の墓で、それを造営したのは初めて実在したかもしれない卑弥呼の弟崇神天皇の墓があるというのがいちばん解りやすいのですが、そんなに簡単にわかっちゃ面白くないという思いも一方ではあります。
ほけの山古墳から眼下の古墳群を見ながら、橋本さんは「この中に卑弥呼の墓が必ずあるというところまでは確信できます。しかしそれは必ずしも箸墓古墳とは限らない。調査データからは箸墓古墳が崇神天皇陵である可能性も決して低くない」と語ります。最後の「へえ~」のため息がみんなから漏れました。それよりも前に、心は卑弥呼の宮殿の柱跡ですよね橋本さん。
私事になりますが纏向遺跡イメージ図の箸墓古墳のちょっと上(西)の川に囲まれた内側ほとりにボクは住んでいます。前回も書きましたが箸墓古墳はお散歩圏にありますので、それが誰のお墓なのか、今後の調査研究をミステリーを紐解くように注目し続けることでしょう。考えてみると初期大和王朝というのは飛鳥に都が移るたかだか300~400年前のお話です。調査研究が深まるほどボクが生きている間に解ってくることも多いことでしょう。箸墓古墳の正体を本当に知りたいかどうか、微妙な心境ではありますが。(陽)


